千葉周作の新事実

宗家投稿

千葉周作は偽名だった?

 宮城県大崎市に斗瑩稲荷神社がある。千葉周作生い立ちの地という看板が立っている。この隣に光明寺がある。住職の伊藤さんが驚く話をしてくれた。「昔は神仏習合で神社まで住職が管理していた。数代前の住職は気仙沼から来た。それを頼って周作先生親子が気仙沼から逃れてきた」のだそうだ。公にできない事実があったのだという。それで神社の境内に住まわせた。

 周作先生がこの神社の境内で6歳から16歳頃まで暮らしていたという。ここから江戸へ出たのである。周作先生は、この斗瑩の地で北辰夢想流を学んだのである。

 その師匠、北辰夢想流千葉吉之丞先生の墓が光明寺にある。

 周作先生は於兎松という名だった。江戸へ出るには手形がいる。しかし、身に覚えがあり本名が使えない。そこで、周作の父は、師匠吉之丞の子の幸右衛門の名を借り、於兎松は孫周作の名を借りて江戸へ出た。

 光明寺には、幸右衛門、周作の墓も並んでいる。

周作の弟、定吉について

 千葉定吉は周作先生の4歳違いの弟とされているが、瑩稲では暮らしていない。お玉が池に玄武館を構えたときに、突如現れ剣を使う。その時の定吉の年齢は28歳位。いったいどこで暮らし、いつ剣を学んだのか。

 思うに定吉は、斗瑩の本物の周作の弟定作であろう。周作先生の盛名を頼って江戸に来た。周作先生は、それを実の弟にして面倒を見たのだろう。

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